『その猫は一度、海を見たことがあった』

その猫は一度、海を見たことがあった/ある夏、少年は猫に海を見せようと思った/溺れられては困ると/少年は犬の首輪を猫につけ/猫に海を見せた/猫は目を大きく見開くばかりだった/お風呂嫌いなその猫が、そもそも海に入ろうとするわけがない/少年は首輪から伸びるロープから手を放した/その瞬間/猫は駆け出した/やけた砂浜/水平線をバックに/猫は大きく身体を伸ばしながら、風のように駆け出した/やがて猫は立ち止まり、ぼくに一度目線を向け、そして海を見た/何を感じていたのだろう/猫ではなく、それを見た当時の少年、つまりぼくが/彼女は死んだ/一度も海を/見ることもなく/死んでしまった/そういえばそんな歌詞の歌があった/その猫は一度、海を見たことがあった/確かに/その猫は一度、海を見たことがあった/産まれてはじめての自由を終えたその猫は/首輪のロープを引きずりながら/今度は歩いて、少年の元へと帰っていった